聞こえない/見えない世界で感じる
アートの「エネルギー」

牧原依里
[映画監督、『東京ろう映画祭』ディレクター]

岡野宏治
[鍼灸・マッサージ師、
『音で観るダンスのワークインプログレス』研究会メンバー]

先天的なろう者であり、映画『LISTEN リッスン』の共同監督を務めた牧原依里は、2年目となる『音で観るダンスのワークインプログレス』で、「セッション 1 –耳で観ること、目で聴くこと–」に参加。研究会メンバーであり、中途失明者の岡野宏治とともに対話を行った。今回、このプロジェクトを振り返るにあたって、彼らに再び集まってもらい、音声ガイドについての話にとどまらず、見えないことと聞こえないことの共通点や、そこから感じとれるアートの本質などについて伺った。いったい、ろう者と盲者による対談からは、どのような世界が浮かび上がってくるのだろうか?

聞き手:田中みゆき | 構成:萩原雄太

体が動く音声ガイド

インタビュアー 5月に行われたセッションの当日は、『雨に唄えば』と、『Shall weダンス ?』『ウォーターボーイズ』の 3つの音声ガイドを流しました。『Shall we ダンス?』は演劇的な要素が強くダンスの解説があまりなかったし、『ウォーターボーイズ』は、フォーメーションの説明が多く、ダンスそのものの音声ガイドとしてはあまり機能していなかった。その中で、岡野さんは、『雨に唄えば』の音声ガイドを評価していましたね。

岡野 当日聴いた 3つの音声ガイドの中で唯一、踊っているダンサーのグルーヴやエネルギー、楽しさを感じることができました。音声ガイドを務めたバリアフリー活弁士の檀鼓太郎さんは、ダンスが盛り上がっていくにつれて一緒に自分も声を張るなど、細かい芸をしています。檀さんのガイドは、見えないことのストレスをあまり感じさせなかったんです。今までさまざまな音声ガイドを聴いてきましたが、初めて自分の足でリズムを取りながら聴くことができたガイドですね。

インタビュアー 檀さんのガイドからは、主演のジーン・ケリーがどのような動きをしているかのイメージはできたのでしょうか?

岡野 どういうダンスをしているのかは、はっきりとわかりません。ただ、控えめに動いていたのがだんだんと大きくなっていった。踊っている喜びみたいなものがクレッシェンドで盛り上がっていき、次第に収束していったことが感じ取れました。声のトーンによって的確に表現されていたんです。

インタビュアー 動きのディテールではなく、ダンサーの気持ちが見えてきた、と。

岡野 そう。ダンス全体のエネルギーの強さというか。他のガイドには、あまりそういう感じを受けませんでしたね。

インタビュアー 牧原さんの場合、生まれつき耳が聞こえない生活を送っています。『雨に唄えば』のようなミュージカル映画をどのように観ているのでしょうか?

牧原 『雨に唄えば』は、ミュージカル映画の中でも好きな作品です。しかし、『レ・ミゼラブル』は相性が悪かったですね。まわりのろう者に聞くと、みんな『レ・ミゼラブル』は面白くないといいます。歌がメインになってしまい、動きが少ないからでしょう。

先日、『ボヘミアン・ラプソディ』を観たところ、歌は聞こえないけれども、演技から何かが伝わってきました。歌が聞こえないことが残念すぎて、普段ならまったく思わないのに「聴者だったらよかったのに」と思ってしまった自分にビックリしたぐらい。その意味では、『雨に唄えば』も、ジーン・ケリーの演技から主人公の人間性がとても魅力的に伝わってくる作品です。

インタビュアー どのような部分から、「人間性」を受け取っているのでしょうか?

牧原 感情がこもっている体の動きからイメージを受け取っています。『ボヘミアン・ラプソディ』で言えば、フレディ・マーキュリーが歌っている時の気持ちを、体の動きから想像することができました。

エネルギーを感じる第六感

インタビュアー 牧原さんが感じているものは、岡野さんが言った「エネルギー」という言葉に近いかもしれませんね。

岡野 そうですね。昨年、『音で観るダンスのワークインプログレス』のホームページに寄稿したレビューでは、「環世界」という概念について記しています(『環世界から見るダンス』)。生物が持っている知覚世界を表すこの概念に興味を持ったのは、哲学に興味があったからではなく、自分自身が見えなくなった後、人の感情が持つエネルギーを「感覚」として感じるようになったから。それは、いわゆる五感とは異なる感覚です。

インタビュアー エネルギーを感じる感覚?

岡野 はい。今の社会は、五感で見る世界がスタンダードであり、他の感覚はないかのように振る舞っていますよね。でも、それは変だと実感しているんです。

インタビュアー 岡野さんは、聴覚や触覚などからエネルギーを感じ取るのではなく、五感とは異なった感覚を使って、「エネルギー」を知覚している、と。

岡野 そうですね。視覚がなくなったことによって、エネルギーを感じる感覚が強くなったのかもしれません。かつては視覚を含めた五感を使って世界を見ていたとするなら、今は、視覚を使わず六番目の感覚を含めた五感を使って世界を見ている。その第六感として、人間が持っている感情であったり、内面で起こっているエネルギーを感じることができるようになったんです。『雨に唄えば』では、檀さんがジーン・ケリーになりきることによって、そのエネルギーを表現しています。だから、エモーショナルなものが伝わり、音声ガイドを楽しめたんだと思います。

インタビュアー 手話の世界でも、数は少ないですが、本人になりきって手話をする人がいますよね。そんなエネルギーにあふれる通訳について、牧原さんはどのように感じていますか?

牧原 手話通訳のあり方にもいろいろな考え方がありますね。個人的にはあまり主張の激しい手話通訳は、存在が邪魔だと感じてしまう。映像が観たいのに、手話通訳の主張が激しいと、気が散ってしまうんです。例えば、今、アメリカなどでは手話通訳者が歌手の代わりに手話で歌うというのが流行していますよね。個人的には、歌がメインであるはずなのに、どうして手話通訳者がメインになってしまうのか……?という違和感がどうしても拭えない。否定するつもりはなくて、無論あってもいいと思うのですが。

ろう者にも音楽がある

インタビュアー 牧原さんは、映画『 LISTEN リッスン』で音楽をテーマにしています。なぜ、このテーマを選んだのでしょうか?

牧原 もともと、ろう者の世界の中に音楽はあるのか?と疑問を持っていて、そんな問いから撮影をはじめた映画でした。音楽=聴者のものと考えられがちですが、実は、ろう者の環世界から生まれる「音楽」があるのではないか?そんな議論をしてほしいという考えから作品をつくったんです。

インタビュアー 生まれつき耳の聞こえない牧原さんが、なぜ「音楽がある」と思っていたのでしょうか?

牧原 私自身、ミュージカルなどで歌っている人の表情を見ると、何かが伝わってきてすごく好きなんです。この感覚はいったい何だろう?と、昔から思っていました。そして、大学に入った頃、「サイン(手話)ポエム」というジャンルに出会い、その公演を観に行ったところ衝撃を受けたんです。間やリズム、空間の使い方など、普通の手話とはまったく異なる非言語的な表現でした。言語と非言語が混ざり合いながら揺れ動いているこの感覚の中に、もしかしたら、「ろう者にとっての音楽」を見つけ出すことができるかもしれないと思ったんです。

インタビュアー 一方、ろう者に対して、音楽を共有しようという試みはいくつも行われてきました。それらについてはいかがでしょうか?

牧原 私の体験では、振動や光などによって、クラシック音楽の心地よさをろう者にも感じられるようにしようという取り組みからは何も伝わって来なかった。音楽は、他のメディアに置き換えられるものではないようです。だから、置き換えるのではなく、その感覚を「つなげる」ために『LISTEN リッスン』をつくりました。ろう者の世界にある音楽とは何なのか?という疑問に向き合おうとしたんです。

インタビュアー 「置き換え」ではなく、「つなげる」という言葉は、ダンスの音声ガイドをつくるにあたっても重要な指摘です。

牧原 ピナ・バウシュの『カーネーション–NELKEN』という作品では、手話を使っているシーンがあります。それを見た時に、衝撃を受けました。手話なのに、言語ではない手話。彼らが体や手から出てくる動きが確実に手話という言語をベースに「音楽」にしていた。

私にとっての音楽は、自分の中にある言葉にできない、生まれ持った感覚に触れるもの。聴者の音楽は聞こえて心地よさがあるのと同じように、動きを観たときの心地よさがあり、新鮮な驚きがありました。その感覚が、私にとっての音楽かもしれないと思っているんです。

だから、振動や光などによって置き換える方法も面白いとは思いますが、一方で、音楽とはそういう「置き換え」では表現できないもの。岡野さんの言葉を借りれば、われわれろう者が持っている環世界に、聴者の音楽の感覚を「翻訳」し、つないでいくことによってその接点が見つかるのではないかと思います。

アートが持つエネルギー

インタビュアー 「見えない人」といってもさまざまな人がいるように、人によって音声ガイドに重視するポイントは異なります。では、「見えない人のための音声ガイド」とはいったい何か?今年は、ある意味そんな振り出しに戻ったように感じています。しかし、いろいろな人がいるからといっても、最大公約数的な、ニュートラルな形での音声ガイドには限界があることも同時にわかってきました。

それを踏まえた上で、ヒントになるかもしれないと思ったのは、牧原さんが以前のセッションの後におっしゃった「見えない人と聞こえない人の捉え方は何か共通するものがあるのかもしれない」という言葉でした。それは、さきほど 2人が話していた「エネルギー」のようなものかもしれません。

牧原 客観的に伝えようとするのではなく、直感的に「通じる」という部分が必要だと思います。客観的に言葉に置き換えようとしても、絶対に通じ合うことはないんです。けれども、直感的なものばかりでも、お互いが理解しあうことは難しい。客観的なものと直感的なもの、その 2つが必要なんです。そして、この直感的なものは、さきほど岡野さんの言っていた「エネルギー」に近い感覚でしょう。

見える世界と見えない世界、聞こえる世界と聞こえない世界、その両方の違いを踏まえた上で、世界をつなげられるのは、ひょっとしたら中途で失明したり失聴した人なのではと思う時があります。中途失明の人は、両方の世界を経験していますよね。そこから、両者の感覚をつなげていく手助けをしているのでは?と。ろうの世界でも、ろう文化に興味を持った中途失聴者が自然と両者の世界を「つなげる」という役目を負う場合があります。

インタビュアー 岡野さんは中途失明で両方の世界を知っています。両方の世界はつなげられると思いますか?

岡野 僕の場合は、環世界が変わってしまうと世界をつなげることはかなり難しいのではないかと思っています。とはいえ、必ずしも不可能なことではない。音楽でも詩でも、表現する「元」のようなものがあると思っているんです。言語や音楽、身体表現に置き換わる前の内面の塊のようなものがあって、それは全部の表現に共通するのではないか。それは、例えば「ポエジー」と呼ばれるようなもの。詩的なものの塊があって、それが言語になれば詩になるし、音として奏でられれば音楽になるんです。

牧原 よくわかります。

岡野 僕は目が見えなくなって、人間だけでなく、動植物のエネルギーに対する感覚がとても強くなった。動物や植物と、エネルギーで交流することができるようになってきたという実感があります。植物に手を近づけたり触ったりすると、植物の方でもこちらに反応し、いつしか「仲良くなる」ことができるんです。

インタビュアー 「植物と仲良くなる」とは?

岡野 初対面の時は、人間と同様によそよそしいのですが、挨拶をしたり触ったりしていくうちに、向こうから発せられるエネルギーの感じが変わっていく。近所の図書館の前にある、仲良くしている大きな木は、やはり初めはよそよそしかったのが、いつしか触っているとそのエネルギーを毛布のようにかけてくれるようになり、とても気持ちいいんです。それは、僕にとっては、いい音楽を聴いている時の体感に似ています。

インタビュアー 木が発するエネルギーを受け取ることと、音楽を受け取ることが近い?

岡野 そう。エネルギーを受け取ることは、音楽だけではなく、アート全般につながるものかもしれません。エンリケ・バリオスというファンタジー作家による『アミ 小さな宇宙人』(徳間文庫)という小説は、文明の進んだ宇宙人が地球の少年と出会う話です。その宇宙人の文化がすごく面白いんです。彼らの文化では、アートを鑑賞する時に、舞台上に上がった人が、踊るでもなく歌うでもなく、心の中に持っているエネルギーの塊を放射する。それを見て、観客が「素晴らしい」と感じるんです。それは、僕が樹からエネルギーをもらう感じとよく似ています。

インタビュアー アートの本質として、エネルギーがあるというイメージですね。

岡野 こんな話をしていると「怪しい」と思われがちですよね(笑)。けど、歴史的にみればこんなに五感で感じる世界はスタンダートではなかったはず。「空気が凍りつく」という言葉があるように、気配や雰囲気など五感の外を感じることは、日本人にとっても一般的でした。

インタビュアー 例えば、写真家の場合、同じ状況を撮っても人によって全然違う写真が生まれます。それは、絞りやシャッタースピードといった技術的な違いではなく、見えないものを含めてどう撮っているかという話ではないかと思います。

岡野 人の持っている環世界は本来は多様なんです。しかし、五感の世界だけのフレームに閉じ込められてしまうと、不自由になるばかり。五感の環世界だけがスタンダードという考え方に、風穴を開けたいですね。

サポートではなく異文化交流としての音声ガイド

インタビュアー では、そんな「エネルギー」を、音声ガイドの「言葉」に置き換えるのは可能なのでしょうか?

岡野 エネルギーを言葉で切り取ると、いろいろな要素が落っこちてしまうので、とても難しいですね。それを防ぐためにひとつ手があるとすれば、詩のようないろいろな意味を含んだ言語を使ってシンボリックに表現すること。しかし、そうすると、動きを説明するものとは異なってしまう。その両方のいいとこ取りは、言語にはできないと思います。

『雨に唄えば』の場合、音楽もついているし、ダンスの盛り上がりとともに音楽も盛り上がっていく。見えない者にとって、音楽から得られるそんな情報はとても大きいんです。しかし、コンテンポラリーダンスの場合、そんな音楽との一致が少ないので難しいですよね。

インタビュアー それに、コンテンポラリーダンスの場合、必ずしも観ていて嬉しくなったり楽しくなったりするものばかりでもありません。どのように、ダンスに内包されるエネルギーを伝えればいいのかはとても難しい問題です。岡野さんは、コンテンポラリーダンスの舞台からエネルギーを感じることもあるのでしょうか?

岡野 あります。ただ、僕の場合は、治療家なので接近戦が得意。距離が離れているとエネルギーを感じにくいんです。しかし、群舞を見ていると、踊っている人のエネルギーが劇場に充満し、エネルギーが回っているという感じを受けることもあります。それは、ダンスに限らず、音楽でも感じることですね。

インタビュアー 牧原さんも、芸術を鑑賞する時にはエネルギーのようなものを読み取っているのでしょうか?

牧原 そうですね。きっと、それもあって手話通訳者が歌うように手話をするのに抵抗感があるのだと思います。だって、歌っている人のエネルギーの方が絶対にすごい。手話通訳者は、そんなエネルギーに対して情報を出す仕事であって、エネルギーを真似ることではないと思っているんです。両方がエネルギーを発していたら、それらがせめぎ合って混乱してしまいます。

インタビュアー ただ、ダンスの場合、ダンサーのエネルギーではなく、情報を伝える存在として音声ガイドをつくろうとすると、結局、状況説明的なガイドになりがち。そうすると、ダンスの「言葉では伝わらない」魅力すらもまったく伝わらなくなってしまうというジレンマがあります。岡野さんは、見えている時にコンテンポラリーダンスを鑑賞した経験がありますが、まったく触れたことのない人にとっては、意味不明な内容になってしまいますね。

牧原 難しいですよね。根本的に、実際には、聴者の音楽をろう者に全部は伝えられないし、ろう者がいつも手話から感じているものを、聴者が100%理解することもできないと思っています。近づける努力はできるけど、お互いの世界を100%感じ取ることは無理なんです。

岡野 それは視覚障害でも一緒ですね。「視覚障害の世界を理解したい」と語る人に対しては「それは無理です」と断言します。100%理解しようとしても、必ず上手くいかない。環世界が違う相手を 100%理解することはできないんです。

視覚障害者の体験として、よく目隠しをして歩き回ることがありますよね。しかし、あれで感じられるのは、視覚情報が欠落した世界。しかし、中途失明をしてわかったのは、視覚が欠落しても、だんだん他の感覚によって埋められるから「欠落」は感じない。不便を感じることはありますが、視覚を失うことは怖いことではないし、絶望することでもありません。

視覚障害者を「欠落した存在」と思えば、何となく下に見てしまいますよね。でも、晴眼者の環世界に触れずに捨てられてしまう情報を、こちらではちゃんと拾っているということは、もっと知られてもいいはず。視覚障害者に向けて音声ガイドをつくることは、ただのサポートではなく、異文化交流という意味が大きいのではないでしょうか。その意味では、視覚障害者を「視覚が欠落した人」ではなく、「視覚情報を使わない文化を生きている人」と見てもらいたい。そうすれば、音声ガイドに対する発想も変わっていくかもしれませんね。