かんせかいから見るダンス

しんきゅう、マッサージ師、研究会モニター、おかのこうじ

わたしはこの夏、コンテンポラリーダンスに音声ガイドをつけるワークショップにモニターとして参加しました。中途視覚障害者であるわたしは、目が見えていたときにはダンスを見るのが好きでよく舞台を観にいっていました。しかし、目が見えなくなってからは、ダンサーの動きが見えないので観ることはなくなっていたのです。

今回、「ダンスの音声ガイドをつくるワークショップ」という話を聞いたときも、「いくら音声ガイドでダンスの動きを説明したとしても、ダンサーの複雑な動きをイメージするのは難しいだろう」と思って、正直なところあまり期待はしていませんでした。

ワークショップでは、参加した視覚障害者は公演で実際に踊られるダンサーの捩子ぴじんさんのガイドでダンスを踊る体験をするグループと、ダンスの映像を見ながら言葉での音声ガイドを作成する作業のモニターのグループに分かれており、わたしは音声ガイド作成作業のモニターとして参加しました。

わたしが参加した回ではすでにある程度作成された音声ガイドを聞くことができました。初めて聞くダンスの音声ガイドは、わたしが想像していたよりはダンサーの動きをイメージできるもので、わたしは「ダンスの音声ガイドは思ったより実現できるかも」と思いました。

視覚障害者にとっての「音声ガイド」は、「見えていないものをイメージさせてくれるもの」です。だから、例えばよくできた音声ガイドつきの映画を聞くと、観終わった後には見えていないはずの映画の場面のイメージが頭の中に記憶として残ります。これはわたしがかつて映画を観た記憶があるせいかもしれませんが、わたしの記憶の中では、自分が見えていたときに目で観た映画と、音声ガイドで聞いただけの映画のそれぞれの場面のイメージは不思議なことにまったく同じように思い出すことができ、ほとんど区別がつかないのでした。しかし、映画の登場人物の日常的な動きに比べて、ダンスの動きはずっと抽象的で複雑なものです。なので、ダンスの音声ガイドでは映画のようにはすんなりイメージしにくいのは確かです。それでも想像していたよりはダンスの動きがイメージできるものなのだな、と思ったのでした。

ワークショップでは、音声ガイド作成の作業が一段落したところで、実際にダンスをしていたグループにそれまでの音声ガイドを聞いてもらいました。

ところが、そちらのグループの反応はかなり冷ややかなものでした。こちらから「今までつくってみた音声ガイドの文章なんですが、いかがですか?」と聞いたときの反応は、20秒近い、とても肯定的とは思えない気まずい沈黙でした。

その沈黙を勝手に言葉にすれば、「これ、何か全然違うんだよな」というものでした。

その後に実際に言葉にされた感想でも、要約すれば「このガイドではダンスのことが全然伝わらない」というような感想でした。その感想は、言葉のレベルではなく、感覚的に感じられる大きな違和感のようなものに思えました。

わたしはこの反応に興味をおぼえました。それまでダンスの映像を見ながら動きを説明するガイドをつくっていたグループの作業が、実際にダンスを体で体験していたグループからはっきり否定されてしまったように感じたからです。

ダンスに音声ガイドをつけよう、という目的は同じであるものの、どうやら二つのグループには何か根本的な違いがあるように感じました。そして、このお互いがわかりあえない感じは、わたしにとってなじみのある感覚なのでした。それはわたしが中途で視覚障害者になってから、しばしば晴眼者とコミュニケーションするときに感じる感覚に似ていたからです。

例えばそれは、視覚障害者関連のイベントで「視覚障害者の世界を体験する」ものとしてよく行われる「アイマスク体験」が、私たち視覚障害者にとっては「それは違うんだよなあ」と感じられても、その違いが晴眼者にはどうしても伝わらない時に感じる感覚です。わたしはこの感覚を経験するたびに、それを言葉で説明できないもどかしさをずっと感じていました。でも、少し前からそれはそれぞれの「かんせかいの違い」として説明できることを知りました。

「かんせかい」というのは生物学者のヤーコプ、フォン、ユクスキュルという人が提唱した概念で、人も動物も昆虫も、同じ世界に棲んでいながら、認識する感覚情報の違いからそれぞれがまったく違った世界を見ているというもので、ユクスキュルはその個々の世界のことを「かんせかい」と呼びました。

「かんせかい」は、人間同士であっても、認識する感覚情報が違えば違ってきます。それは、「晴眼者と視覚障害者」のように受け取る感覚情報が根本的に違う場合だけでなく、特定の感覚情報に意識を集中する人々、例えば音楽家、画家、ダンサー、職人、アスリートなどの人でもそれぞれ独自の「かんせかい」を持っている、ということです。つまり「かんせかい」というのは、「自分の感覚情報をどんな配分で材料として使って世界を組み立てる(認識する)か」ということであり、個々の人の活動における感覚情報の必要性に応じて変化し、これによって私たちは同じ世界にいながらそれぞれが違う世界を見ているのです。

先ほどの「アイマスク体験」の例で言えば、晴眼者がアイマスクをした状態は、視覚を含めた感覚情報でつくられた「晴眼者のかんせかい」からアイマスクによって視覚情報が大きく欠落してしまった世界なのに対して、全盲の視覚障害者の「かんせかい」は元々視覚情報以外の感覚情報だけによって100パーセントつくられた世界であり、視覚情報は使われていないものの、聴覚や触覚の情報が晴眼者よりも多く材料として使われている、晴眼者のものとはかなり異なった世界であり、そこには情報の欠落はないのです。だから「アイマスク体験」で晴眼者が感じる恐怖や不安は、自分の「かんせかい」から視覚情報がいきなり欠落したことへの反応であり、視覚が使えない不便さを体験するものではあってもそれを視覚障害者の「かんせかい」を体験した、と考えるのは間違いなのです。

ここで、さきほどの二つのグループの話に戻りますが、二つのグループの違いは、それぞれの「かんせかい」の違いから来ているように思います。実際にダンスを踊ったグループは、ダンスを直接自分の体で感じたグループです。つまり彼らは主に自分の筋肉や腱が動くのを感じる「しんぶかんかく」や平衡感覚などの感覚情報による「かんせかい」を通していわば自分の内部からダンスを感じていました。一方、ダンスの映像を見ながら音声ガイドをつくっていたグループは、映像の中のダンサーの動きを視覚でとらえてそれを言葉で表現しようとしており、グループの中にいたわたしはつくられた音声ガイドの言葉を聴覚によってとらえてそれを頭の中でイメージに置き換えていました。つまりこのグループは主に視覚と聴覚の情報によって、ダンサーによって踊られるダンスを外側から感じていました。つまり、二つのグループはまったく違った「かんせかい」を通してダンスを感じていたため、お互いの感じていることに共感できなかったのだと思います。

私たちは自分の「かんせかい」を通してしか自分の周りの世界を感じることができません。したがって自分とは違う「かんせかい」について共感するのが難しいのです。なぜなら相手の「かんせかい」で使われている感覚情報が自分の「かんせかい」で使われていなければ、その情報は「自分の世界には存在しない」からです。そして、私たちはおそらく個々にかなり異なる「かんせかい」を通して周りの世界を見ているにも関わらず、同じ物理的空間を共有しているために、つい同じように世界を見ている、と思い込んでしまいがちなのです。

このように、「かんせかい」の違いによって違う世界を見ている、という例は私たちの日常で多く見受けられますし、晴眼者と視覚障害者の「かんせかい」の違いはかなりはっきりしているのですが、意外なことに、この「かんせかいの違い」ということは、わたしの知る限りでは視覚障害者に関する問題を扱う際に話題になることがほとんどないように思います。もちろん視覚障害者は晴眼者との「かんせかい」の違いからくるギャップを感じてはいると思いますが、それが言語化されることはないように思います。そして、視覚障害に関する専門的な本などを読んでも、視覚の障害については詳細な分析が書かれていても、視覚障害者の「かんせかい」について書かれたものは、わたしは読んだことがありません。わたしは、視覚障害の問題に限らず、もっといろんな場面で「かんせかい」という概念が使われるといいなと思っています。

今回のダンスの音声ガイド作成のワークショップが終了して、最終的に三つの音声ガイドがつくられ、ダンサーの捩子ぴじんさんが踊る公演でそれら三つの音声ガイドを聞くことができました。

わたしは残念ながら本公演には参加できなかったのですが、三つの音声ガイドを聞くことができました。それらを聞いて、わたしはそれぞれのガイドは次のような性格のガイドだと思いました。

捩子ぴじんさんのテキストによる音声ガイド1は、ダンサーの体が語る音声ガイド。研究会による音声ガイド2は、舞台を見つめる「眼」が語る音声ガイド。能楽師のやすだのぼる氏による音声ガイド3は、舞台空間が語る音声ガイド。

このように、みっつの音声ガイドはそれぞれ異なる「かんせかい」を通して語られるガイドとなっていました。

わたしの感想としては、①と③は従来の音声ガイドとはまったく違うタイプのものでとても面白いのですが、どちらもそれだけでは舞台上のダンサーの動きをイメージすることはとても難しいと思いました。一方②は、ダンサーの動きをある程度イメージできますが、これだけ聞いていても、正直なんだか物足りない感じがしました。

わたしが三つの音声ガイドを聞いて強く思ったのは、「この三つを同時に聞いて、それを自分がすべて認識できたらいいのに」ということでした。しかし、普通の人間は三つの音声ガイドを同時に聞いてそれを並行して脳で処理することは残念ながらできません(まれに天才的な音楽家でこのようなことが可能な人もいるらしいですが)。

わたしにとっては、まず②の動きの解説の音声ガイドは必要だと思いました。しかしこれでは物足りません。なぜかと考えたとき、これは映画における音声ガイドと同じなのではないかと思いました。映画を観るときには、音声ガイド以外に映画自体のセリフや音が存在するからです。

そこで、①と③を映画のセリフや音声、②を音声ガイドと見立てて、それぞれの音声ガイドを別に録音し、音声ガイドの①と②、②と③を組み合わせて、①を左耳、②を右耳からというように二つの音声を同時に再生して聞いてみました。つまり、ダンサーの体が語るセリフと動きを説明する音声ガイドというものと、舞台空間が語るセリフと動きの解説の音声ガイド、という二つの音声ガイドの混成バージョンで聞いてみたのでした。これはかなり面白い体験でした。

そうすると、ダンサーの体や舞台空間が語るセリフと、ダンサーの動きを補う音声ガイドというふうに聞くことができたからです。もちろん、これらは同時に聞かれることを前提にしていないので音声がかぶって聞きにくい箇所が出てしまいますが、もし、これらを同時に聞かれることを前提として音声の流れるタイミングを工夫すれば、わたしにとってはこのような形がダンスの音声ガイドとして楽しめるもののように思いました。

わたしは、このような形式でいろんなダンスの混成音声ガイドがつくられたら、そのうちダンサーの動きを実際に観ることができなくてもけっこう楽しく鑑賞できるようになるのではと思ったのでした。

おかのこうじプロフィール。鍼灸、マッサージ師。網膜色素変性症により30代から徐々に視力を失い、2006ねんさんがつより盲導犬ユーザーとなり、どうねん治療院『大泉あんしん館』を開業。2015ねんより、現代の人間があまり使っていない五感以外の感覚を使って日常生活を豊かにするためのワークショップを行なっている。